2.階層の法則


★ 魂は浄化向上を志している

霊 的世界は無数の階層に分かれていて、あなたは死後、あなたの魂の成長のレベルに応じた階層に行くことになります。これが、階層の法則です。霊魂の法則によ り、人間が霊的存在で、この世に一時的な旅をしに来ているとわかると、「なぜわざわざそのようなことをするのか?」 「この世とあの世がなぜ分かれていて、何のために二つの間を行ったり来たりしなければいけないのか?」 といった疑問が出てくることでしょう。その答えの鍵(かぎ)は、すべての魂が目指している浄化向上にあります。私たちは物質界にいる今でこそ肉体をまと い、一人一人がばらばらの存在になっていますが、霊的世界においては、究極的には私たちは一つのまとまりなのです。人間の魂だけでなく、動物や植物の魂、 この世に姿を持ったことのない魂(自然霊)も、すべての魂の源は一つです。そのまとまりの中心こそが、大霊(グレイト・スピリット)すなわち神です。神と は最高位の霊的エネルギーなのです。すべての魂は、神であるこの中心の中に、いつか統合されていくことを志しています。しかし、その魂に濁りや曇りがあれ ばあるほど、中心との距離が離れてしまっています。そこでより純粋なエネルギーとなるよう、自らの濁りを少しでもきれいにし(浄化)、今よりもより高い境 地に行けること(向上)を目指しているのです。私たちの魂を浄化向上させるために最適な場所が、この物質界です。だからこそ死と再生を繰り返しながら、私 たちは何度もこの世への旅に来ているのです。霊的世界にいる間は、私たちの魂は自らが浄化向上を目指していることを理解しています。ところが物質界の肉体 に宿ったとたんにそれを忘れてしまい、魂が持つ本性むき出しの状態で、この世を生きることになります。そして、喜びや楽しみを味わい、愛を学ぶ一方で、物 質界特有のさまざまな苦悩を味わい、人間同士の衝突を経験するのです。霊的視点で見れば、これらの経験は決してマイナスではありません。むしろ、自らの魂 の濁りや曇りに気づかせてくれるありがたい仕組みなのです。大事なのは、そうした経験を前向きに受け入れて、喜怒哀楽の感動に魂を震わすこと。感動こそ が、何よりも魂を浄化させる力を持つのですから。感動の多い人生では、魂は大きく浄化向上します。逆に、経験の乏しい人生、感動の少ない人生を漫然と送っ ていたのでは、この世に生を受けている時間を有効に生かしていないことになってしまいます。失敗を恐れずに沢山の経験と感動を積み重ね、より透明な魂と なってあの世へ帰ることこそが、私たちがこの世に生まれて来た意味なのです。

★ 肉体の年齢と魂の年齢


こ のようにすべての人間は、霊的存在として、魂の浄化向上もしくは霊的成長を志しています。その進み具合を心境といったり霊格と言ったりしますが、これは人 によりさまざまです。つまりこの世には、魂の浄化向上が進んだ人と、まだまだこれからという人が混在しているのです。私はいつも霊格の事を、わかりやすく 魂の年齢と表現しています。魂の年齢とは、すべての前世をも含めて、その魂がこれまでにどれほど多くの経験と深い感動を積み上げて来たかの度合です。私た ちがこの世に生まれて何年が過ぎたのかというふつう年齢と呼ばれる肉体の年齢とは、これは別のものです。経験と感動を多く積んで浄化向上してきた人ほど、 魂の年齢は高く、真の愛に目覚め、霊的価値観すなわち叡智(えいち)を備えています。魂の年齢の幼い人ほど、まだまだ学びが足りず、地上的な物質主義的価 値観にしばられています。霊格はおおむね人格に比例しているとも言えます。魂の年齢と肉体の年齢の間には、何の関係もありません。この世には、魂が大人で ある子供もいれば、子供の魂を持った大人もいるのです。人間関係において、この視点を持つことはとても大切です。まず第一に、この人は年齢から言うともう 立派なお年寄りなのに、どうしてこんなに意地が悪いのだろうか、うちの姑(しゅうと)は、なぜこんなにもわからずやなんだろうか、といったようなことで悩 むことはなくなります。腹が立った時は、見かけの年齢に惑わされないよう、相手を赤ちゃんとして想像すればいいのです。赤ちゃんに叩(たた)かれたり、幼 児にからかわれたりして腹を立てる大人はいません。もしいるとしたら、その人こそ幼いのです。また、この視点を持つことにより、年下の人に対する見方が変 わります。年下の人の中にも、自分よりよほど経験を積み、叡智を備えた魂の持ち主がいるのだとわかると、自分は年上なんだからとか、年下のくせにといった 不必要な構えやこだわりが無くなります。彼らから学ぶべきことに心を開くことで、とても心豊かになることが出来ます。親子においては、この子は子供のくせ に生意気なことを言うと思ったり、自分の子供だからと、子供をわが物のように考えたりすることが間違いだとわかります。親より子供の方が魂の年齢が高い親 子など、実はざらにいるのです。

★ より高い魂の境地へ行くために

始めに書いたように、死後の世界は無数の階層からな る、厳然とした 「差別界」 です。誰もが例外なく、死んだ時点での自分の心境に合った階層に、平行移動していきます。生前の地位も名誉も貧富も全く関係ありません。死後は魂がどれだ け純粋で、どれだけ輝いているかということだけが問われるのです。世の中には、死を迎えたら天国に昇天するとか、すぐに神と一つになると考えている人がい ますが、真相はそう簡単ではありません。毎日神様に祈ったり、念仏を唱えてさえいれば天国に行けると単純に考えている人もいますが、それは全くあり得ない ことなのです。魂が死後たどる道筋について簡単にご説明しましょう。人間は肉体の死とともに肉体という殻を脱ぎ、幽体と呼ばれる霊的なエネルギー体に移行 します。そして、「現界」 すなわち私たちが生きるこの世界と霊的世界の中間にある、「幽現界」 へ行きます。一般に仏教では死後四十九日間はこの世にいると言われますが、それは現界に留まっているということではなく、「幽現界」 にいるという意味です。その後、魂は 「幽界」 へ向かいます。この 「幽界」 の中も、さらに無数の階層に分かれています。霊格が高いほど高い層へ、低いほど低い層へ行くことになります。よく言われる 「天国」 と 「地獄」 は、この 「幽界」 の高い層と低い層を指していることが多いようです。臨死体験をした人の話によれば、ある人は、死後の世界はお花畑が広がり、小鳥は歌い、言葉には尽くせな いほど美しい世界だったと証言しています。また別の人は、暗闇が果てしなく広がる恐ろしい世界だったと言います。これほどの開きがあるのは、その人の魂の レベルによって行く場所が違うからです。魂はやがて、この 「幽界」 をも離れて 「霊界」 へと上昇します。このとき、魂は自らの姿を形作っている 「幽体」 さえも脱ぎ捨てるため、この過程は 「第二の死」 と呼ばれています。「霊界」 へ行くと、魂は自らの類魂(「類魂の法則」 参照)に帰って行きます。類魂と溶け合い、その一部分となるのです。私たちの魂は、「現界」 で学び足りなかった部分をふり返り、多くの場合、もう一度学び直そうと決意を固め、そこからまた 「再生」 します。こうして魂は 「再生」 と 「類魂へ帰ること」 を繰り返し、最終的には、大いなる光のエネルギー、大霊(グレイト・スピリット)へと融合する 「神界」 へ向かうのです。こうして説明してきたものの、肉体の死後の魂の道筋には、実際は気が遠くなるほどの時間がかかります。それは私たち人間が持つ時間の単位 などでは、到底計れないほどです。

★ 「失うことへの恐れ」 を捨てる

私たちが私たちの人生を終えて霊界へ向かう過程す ら平坦(へいたん)ではありません。霊的世界を信じないまま死んだ魂や、死後も自らの死を受け入れられない魂、この世に執着を強く残す魂は、「幽界」 どころか 「幽現界」 をいつまでもさまよい続けます。これらの魂は、あの世への移動が停滞してしまった、いわば狭い意味での 「未浄化霊」 たちです。街中を霊視すると、そうした霊魂が無数にいます。ラッシュアワーの駅に行き霊視をすれば、いまだに死に気づかず電車を待っているサラリーマンの 霊魂を見つけることが出来ます。デパートへ行き霊視をすれば、売り場を歩き回り、商品の値札までチェックしている主婦の霊魂を見つけることが出来ます。交 通事故の現場に行き霊視をすれば、「こんな場所で突然死ぬなんて」 と思いながら、ふらふら歩いている泥酔状態の霊魂を見つけることが出来ます。火災現場に行き霊視をすれば、パニック状態で走り回っている霊魂を見つけるこ とが出来ます。「地縛霊(じばくれい)」 とも呼ばれるこれらの未浄化霊は、彼ら自身の肉体の死を受け入れられず、この世への執着や悲劇的な思いを手放せないでいるのです。また、死に気づいても 「この土地は誰にも渡すものか」 と、生前の土地や家にへばりついたままの霊魂もいます。「死んだらお墓に行くものに決まっている」 という自分の固定観念にしがみつき、お墓にぽつんと座り込んでいる放心状態の霊魂などもいます。これらの人々はみな執拗(しつよう)なこだわりによって、 自らの魂を地上世界に留まらせてしまっているのです。「浮遊霊(ふゆうれい)」 と呼ばれる未浄化霊もあります。これは、「恋人が忘れられない」、「私が死んであの人だけが幸せになるなんて許せない」、「やり残していることが山ほどあ る」、「残した家族が心配でたまらない」 など、現世に残したものへの未練や後悔、妬(ねた)みや憎しみなどの感情を手放せず、いつまでも現世をさまよっている霊魂です。愛と喜びの世界へと向かっ て行けるはずの彼らの魂を 「幽現界」 に留めているのは、他ならぬ彼ら自身の否定的な心のエネルギーです。いわば 「失うことの恐れ」 が、魂の浄化を妨(さまた)げているのです。しかも自分で自分を縛っている事にも気づけないのですから、何と不幸なことでしょう。これは霊魂に限った話で はありません。生きている私たちにも、実は全く同じことが言えます。私たちが、失ったものへのこだわり、執着、妬み、後悔、恐れといった否定的な感情を手 放せないでいると、それは魂の成長を停滞させてしまうのです。ちょうど 「未浄化霊」 のように。こうした 「失うことの恐れ」 は、この世に生きる人間には多かれ少なかれ誰にでもあるものです。そしてそれは誰もが乗り越えなければならない、現世での共通する課題です。今あなたは何 を恐れ、何に執着しているのか、ふり返ってみて下さい。そして、それを手放してこそ、喜びや幸せを受け取る準備が出来るのだという事実を知ってほしいのです。






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